眼鏡びいき。

日々の雑感であり、個人的見解の忘備録。

夏季休暇あけて

見えていた展開である。この場がこのように手入れされていない野ざらしの場となる事は。今までも幾度と無く観て来た数あるブログ(私のも第三者のも含め)の一つである。では、何故このタイミングで更新したのか。ただ一つ、早く帰宅出来たのと夏季休暇を経て精神的に余裕が(比較的)あるからだろう。

 

職場の方々には多大なる迷惑をかけ、繁忙期(本来は八月に終わっているはずなのだが )に半ば強引に夏季休暇を取らせていただいた。本当に感謝である。では、この休暇に何をしていたのか。まあ、色々していたのだが主には東京以外の何処かへ逃避行していた。まあ私の逃避行の具体を書いたところで少ない読者の殆どは興味がないだろうから(出来事も既に忘れはじめていることだし)、その際に読んでいた書籍でも軸に書いてみることにする。

 

その時期に読んでいたのは、これまたベタであるのだが、現在書籍店に行けばおおよそ十割店頭にぽんと置かれているあの自序伝というやつである。久しぶりにこの筆者の書籍を手にとったのは出発前の空港内の書籍なのだが、特にこれが読みたいと思って手にとった訳でなく、なんとなくである。

 

まあ、結局逃避行中に読み終えること無く休日最終日の先日読み終えたのだが、その時の雑感をまたしても此処にだらだらと記していく。

 

「何か偉大な事を言っているようで、あまり何も言っていない」

 

この本を読んだ大枠の感想である。勿論最終章の対談等の事実を記述した文筆には感心させられたのだが、こんな感じだ。言っている事も、この筆者特有のすんごい婉曲的表現をしているのだが噛み砕いて解釈していくと当たり前の規則正しい人間の生活である。ただ、別に批判も拍子抜けもしていない。この感情は何故だろうかと認知してみると、ふと腑に落ちる理由があった。

 

「自分のキャリアと類似している」

 

これであった。具体的には何処なのか。先日某有名な新聞でこう記されていた記事があった。

 

「(中略)~「等」の弾力的解釈~(以下略)」

 

色々とぼかして記したが、「等」という文字を見ない日は無い。皆無である。この文字を使うという事は、長々と書かれた記述を解釈すると何か明確に記しているようであまり何も記していない、という解釈が可能となる。(勿論、幅広に記述するという目的もあるだろう)

 

嗚呼、さらに記述すべき事項があった筈だが、眠いし小出しにしたほうが色々と得な質なので、この辺で。